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運良く建仁寺の天井画「双龍図」制作現場を見学に中札内村へ

国内見聞録/Kokunai> 小泉淳作の「双龍図」/Dragon

小泉淳作の「双龍図」/Dragon


小泉淳作の「双龍図」/Dragon

日経の紙面上で「豆腐論争」をしたお二人


日本画家・小泉淳作画伯は、作家の高橋玄洋先生のご紹介で何度か尾道にもお越しになられている。その高橋玄洋先生は、145,000平方メートルの広大な敷地をもつ、六花亭の中札内美術村にある相原求一朗美術館、坂本直行記念館の館長を務められている。
その縁もあって、小泉淳作画伯は、六花亭の全面的な支援を得て、中札内村の廃校となった小学校の体育館で京都・建仁寺法堂の天井に据え付けられる大作「双龍図」の制作に取組まれておられた。
2002年、吾輩たちは、その制作過程を見学するという幸運に恵まれたのだ。体育館のステージでは、高橋玄洋先生と小泉淳作画伯がなにやらお話をされていて、このお二人の写真を撮ろうと思ったまでは良かったのだが、ちょっと距離が離れている上、カメラのズーム性能もさほどではなく、吾輩にはそれをカバーするほどの腕もなく、写真のピントも合ってない。(右側が小泉画伯、左側が高橋先生)
高橋玄洋先生と小泉淳作画伯とは実に仲の良いお二人とお伺いしているが、高橋玄洋先生のお話によると、何でもお二人は日本経済新聞の紙上で「豆腐論争」をされたとき聞いていた。しかし、その内容が「冷奴か湯豆腐か」という論争であったかどうか、吾輩の記憶は定かではない。小泉淳作の「双龍図」/Dragon

建長寺「雲龍図」と建仁寺「双龍図」


さて、話を本筋に戻して、「双龍図」は、京都五山の臨済宗建仁寺派の大本山建仁寺創建800年を記念して、小泉淳作画伯に制作依頼されたものだ。画伯は前年、鎌倉五山の臨済宗建長寺派の大本山建長寺法堂に「雲龍図」を完成されている。
これまた大いに余談ではあるが、吾輩たちはこの年、鎌倉を訪ねる機会があり、画伯に直接この建長寺の「雲龍図」をご案内いただくという幸運も得ていた。その前後だったと記憶するのだが、画伯の陶芸展(東京南青山)にもお邪魔した。このときの記念に買い求めた「我の名はシーラカンス三億年を生きるものなり」シリーズのぐい呑みは、今もときおり吾輩を美酒で楽しませてくれる。
小泉淳作画伯は五歳で母を、11歳で政治家だった父を亡くされ、「無償の愛を知らずに育った」といわれている。その孤独感が画伯の内面を充実させ、芸術の深みを極めているのだろうか。吾輩には画伯の眼が龍の如く見え、画伯の「冬瓜」をはじめとした作品には、心底、心を動かされる。画伯は間違いなく、日本画史に残る画家だといわれている。
六花亭の中札内美術村には小泉画伯のアトリエがつくられ、確か「龍臥庵」と名付けられていたと記憶する。またその後、美術村には小泉淳作美術館が開設された。折角だから、この際、当時の完成間近であった「双龍図」の制作現場見学の記録をご覧に入れるとしよう。
2009年10月現在、先生は奈良東大寺の襖絵に取組まれている。小泉淳作の「双龍図」/Dragon


小泉淳作画伯、そして六花亭製菓にご無理をお願いして、尾道市立美術館で2011年12月3日から翌年1月29日まで「小泉淳作展-中札内村・小泉淳作美術館コレクション」を開催させていただいたが、会期中の1月9日に画伯は突然他界されてしまった。誠に残念なことだ。(2012年1月)
最後に小泉淳作画伯とその作品を中札内村の体育館の中で夢中で撮ったことは記憶に新しいが、パソコンのどこを探してもoriginal dataがみつからず、意気消沈した。それでも何か手ががりがと探し続けて、1ヶ月後にやっとoriginal dataが発見できた。大喜びでデータを掲載できるサイズに修正し、以前の画像データと差し替えたが、期待したほどの画質とはならなかった。やはり広い体育館で、しかも少ない自然光での撮影でだったこと、さらに当時のカメラの性能では、今のようなリアリティのある画質でお見せできないことが改めてわかり、またガッカリした。ご勘弁を願いたい。(2019年11月24日)
  • 小泉淳作の「双龍図」/Dragon
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